逃げたいとか、もう頑張れないとか、そんな話し

徒然なるままに しんどいなぁ、と思った話し

働くのは何のため?

生活の為です。

住む所食うものの為に働いてる。

働いたお金はほぼ自分のものには使えない。
や、家のローンとか自分のものかも知れんな。

けどねー
やりたい事とか遠くて、分かんなくなって
何の為に働いてるのか、生きてるのか
よう分からん時があるよ。

悪い人じゃないんだけどねー

悪い人じゃない、って、意外と聞くし言ってる
が、それこそジャッジだと今更だが理解。


何か引っかかる事があると「悪い人じゃないんだけどさー」って出る。
さも自分が正しい、自分が優位、相手が間違ってるおかしい悪いと言う前提でその言葉が出る。

だいたい私の言ってる事は正しい。んだと思う。
ゴリ押ししない、無理難題言わないし、仕事でも理路整然。そもそも人にあーのこーの言わないしね。
が、正しいから何だと言うのか。
正しいからと言ってまったくハッピーな気持ちで生きていない。
大事なのはそこではない。
「悪い人じゃないんだけどさー」と言ってジャッジしている、その事。
人をジャッジして許してないし、受け入れてない。
そして、それはそのまま自分に跳ね返って来ていて。
私は私を社会的に正しいとジャッジして、そこを基準にして、他の事を許してなくて受け入れない。
ありのまま〜、なんて程遠い。

好きな事なんて出来ない訳だ。
他人、社会の「社会通念上」を優先してるんだもん。

気づいただけマシとする。

大波どっぱん

消えたい、辞めたい、苦しい、逃げたい、等々が
数ヶ月ぶりで大波としてやって来た
スパン短め笑


すべてに腹が立ち、腹立つ事柄に対して無力な自分、勇気のない自分、惨めな自分にがっかりして、逃げたい。
負のループ。


頑張れないって本当に思ってるのに、変える事が出来ずに頑張り続けてる。

負のループ。自分を責めたり許せなかったり

自分を責めるのは良くない。責める必要なんてない。
と、聞くし 自分でもそう思う。
思うんだけど、シンドイ時は負のループにハマってる。

過去の上手く出来なかった自分を責める→『責めない』を上手く出来ない自分を更に責めてる。
この2つのループ。
狭い!

上手く出来なかった事なんてたくさんあるから、たくさん責める。
許しを自分に与えたいのだが、それも上手く出来ず、それすら責める対象に。

すっかりダメループにハマってしまい呼吸が浅くなりシンドさが増す。


根本的に楽になりたいのだが、余裕がない時なんてこんなもんさ、と とりあえず布団で丸くなる事とする。

自己肯定感てなに?

親からの愛を感じて生きて来た子は自己肯定感が高くあるのだとか。
愛情を感じられないで育った子はその逆。
それで 愛着障害だとか、自己肯定感が低いとか、何とかかんとか。
なるほど。心当たりある。

自己肯定感を育てよう!などと気軽に読めたりするが、ネガティブが強いせいかスッと入って来ない。

ありの〜ままのーって歌が流行ったけど、あの映画も自己否定と自己肯定だよね。


せめて自分だけは自分を否定しない。
怒りも悲しみもぜんぶ「そう感じる」事を否定しない。

そこからかなぁ。

瞑想を勧められてしてみたら、良かったって話

瞑想いいよ!と世の中も言うじゃないですかぁ(若者風に)
知人も言うし。

瞑想がうまく行く?と 恍惚となる、とか
三度の飯より瞑想とか
マインドフルネスとか
ストレスリリースとか

なるほど。上手く行けばナイスな結果になるかも知れん!と行ってきた。

ストレスフルで逃げたい消えたいって思う事が多いから、それはそれで苦しいもんね。
楽になれる方法があるなら取り入れて行こうと。

結果から言うとやって良かったし、少しスッキリもした。

上手いこと瞑想状態にはなれなかったし、
雑念も山ほど出て来る。

そんな時は呼吸に集中しましょう、と指導があったので呼吸に集中。
深い呼吸は 息を吐き切る事をすると 息をたくさん吸える、とラジオで言ってたな、と思い出したので実践。
普段の呼吸が浅いからこれは良いこと。

そんで、捨てたはずのネガティブが目の前に出て来るから「まだ持ってたんだ」と驚いた。
忘れてた注文が自分のテーブルに運ばれて来た気分。「え?これ頼んでました?あ、頼んでましたか」みたいな。

瞑想では出てきたものはジャッジせずにあるがままに、と言われたが、テーブルに置かれたものをついジャッジしてしまう。
ジャッジしてしまう自分を更にジャッジ。

向き合う必要のある何かしらが出て来るから、今後再び向き合う事とする。

普段仕事やらアレコレで思考が止まる事があまりないので、物音のあまりしない場所で自分の呼吸だけに集中するのはとても良かった。
潜在意識にまで自分が到達できたかどうかは分からないけど、そーゆー時間を持つのは良いな、と素直におもえた。


瞑想いいよ!
やってみなよ!

「のに」と出るとシンドイ

会社のパートさん、何人かいるけどとってもイラつくんですよ。

そのイラつく原因は彼女達の面倒だからやりたくない、やらないとゆー仕事の態度。


でね、やんわり伝えるんですよ。やりましょうね、と。
そーするとあーのこーの言い返して来たりするんですよ。

言い訳や言い返してこずに素直に「はい」ってやれや!と思う訳ですよ。

その時に渋々やっても次はまたやらないの。

仕事なのにね。

(だからと言ってパートさん達に嫌な態度取るとか、何か言うとか、そんな事はない。つか、そんな事言う暇もない)


まぁ。そんで私は許せない気持ちになるんだけど、その真面目さゆえに、そんなパートさん含む理不尽(と、感じる)な事があると「もーいやだ!辞めたい!逃げたい!人里離れた山奥行きたい!」になってしまいがち。
私が忖度なしで指導したらビシバシ過ぎて誰も付いてこないとゆー自覚がある。
細かい、やり切る、許さない。

で、それはそのまま自分に跳ね返って来てて、
「細かくて、やり切って、そうしないと自分が許せない」姿勢。
仕事量が多くて「もー限界!」ってなってるのに、まだやり切ろうとしてて、疲れてて、しんどい。
のに!
この「のに」がミソ。
私はしんどい「のに」パートさん達がチンタラやってると「許せない」気持ちになる。

他にもあるよ。
私は頑張ってる「のに」
私は努力してる「のに」
私はガマンしてる「のに」
のにのに。

のに、が出始めるとなかなかシンドイ。

人のせいにしてる状態だから。
人のせいにしてると解決しないのは経験則で理解しました。


やる必要があるのは
私が私と向き合う事だけ。
そーかそーか、そんなにシンドイか。
そりゃシンドイよね。頑張ってるもんな、と受け止めてあげないと次の心に行かない。


けど、シンドイ時は「のに!」って出ちゃうよねーー!

出る出る。そりゃ出るよ!
出る時くらい、あるさ!!

ネガティブに拍車がかかるから TVはあんまり見なくて良いよ

特にニュース、情報番組

ニュースや情報番組は 本当に大切な事は報道しないよねー。
それでいて同じ内容をただ繰り返してるだけ。

執拗に「この人はこんな事しました!」と1人を追い続けたり、ただただ不安を煽るだけだったり。




ネガティブで繊細で人に合わせ過ぎる人間はテレビを見ない方が良いと私は思ってる。


イヤな内容のもには同調し過ぎて 自分もイヤな気持ちになりやすいしね。

逃げたい、とか 消えたい、とか言う人は、感じる力が強い人が多い印象。
それでテレビからもイヤなものまで取り込んでしまうんだと思う。



だからテレビはあんまり付けない方が良いよって話し。

助けなんか来ない

キツいとかしんどいの他に
「助けて」もあるよね。

よくある。



その声は私にしか聞こえないから、
どっかの誰かの助けを期待しててもムダ。


私にしか聞こえないんだから、私が助けないと。

私が心の声に耳と神経傾けて「どうしたら救えるのか?」と訊ねないといけない。
何が苦しくて助けて欲しいのか、自分で聞かないと。


私にしか聞こえないんだもん
私がどーにかしないで誰がしてくれるってんだ。


「誰か助けて」が意識出来るなら、まずは私が助けないとね。

外のからの助けはその後だよね。

自分許すってどうやって?

せめて仕事がない日くらいは「おもむくまま」をしてみる。
ご飯作らない、掃除しない、洗濯しない、風呂入らない、ゴロゴロする。
自堕落を「許す」。

小さな「許す」の積み重ねで 自分を許す練習をする。


すぐ自分で否定してしまう。
「ご飯作らなきゃ」「床汚い」「やらなきゃ」
と、「やりたくない」を否定。
それも「許す」。
許すのが難しいなら「肯定する」「否定しない」でも良い。
「やんなきゃって思うよねー」
「やりたくなくても、やるしかないって思うよねー」とまず肯定。

それから「やりたくない」を優先させる。
罪悪感が出て来たら
「罪悪感を感じるほど頑張って来たのだよ!」と肯定。
それから「やらない」を選択。
それでも罪悪感やら、使命感が出てくるなら更に内なる声を聞く。
やりたいの?やりたくないの?
そんで、肯定、選択の繰り返し。



明日目が覚めたら突然 他人も自分も許せるハッピーな人!には なってないので、地道に小さな「許す」「肯定」せめて「否定しない」を積み重ねるしかない。


逃げたいって思う自分を否定しない。
「逃げたいって思っちゃうんだもーん!仕方ないじゃん!」

感受性が豊かとか繊細とか

生きてく上で今現在はそれがしんどさに拍車をかけてると思われる。

鈍い方が楽じゃね?!と思わずにいられない。
本気で気が付かない方が楽なんじゃないか??とかね。

もーね、誰とも関わりたくない。

繊細、と言えば聞こえは良いけど
神経質過ぎて自分に疲れる。
他人も自分も許せない自分に疲れて、緩める方法分からない。


無人島とまでは言わないが、人里離れた山奥とかに住みたい。
それも叶わないなら とりあえず家から出ない。

楽になりたい。遅々として進んでる気にならないけど確実に効果はある

しんどさもMAXになると「楽になりたい」が自死に向かう気持ちになりやすい。

楽になりたいのよ。

仕事、職場、上司、家族アレコレ云々。
仕事がしんどいなら「逃げましょう」「改善を求めましょう」とかやった事ないし言えないし。

逃げられない気持ちなのよ。

どん詰まり。

自分を奮い立たせて何か事を起こすなんて そんな大変な事!!!だし。
出来るならすでにやってるよ。
出来ないから今こうなってるんじゃん。


もうね、先送り。

苦しいんじゃ!めちゃくちゃ苦しいんじゃー!
楽しい事なんてない!しんどい!もーイヤじゃーーー!
と心の中で叫んで、そうなってる自分を認めて、寝る。
風呂は入らなくてもいいよ。
せめて好きなもの食べてから寝る。
ネガティブな感情を認める大事。
「そう思うのも仕方ない事」と自分に声かけて。これも大事。
その二つだけやって寝る。


そうやって先送りして、無理して解決しようとしなくて良い。

そのうち何とも思わなくなる日が来るかも知れないじゃん。
来るよ!来るって!

キツいしんどい逃げたい消えたい気持ちは放って置いても良い。先送りにしてみる。

多分 真面目で責任感も強くて 逃げてはいけない、と思っちゃってる。
緩めるとか許すとか知らないでいる。

そんな気持ちは「良くない」から対処せねばならないと思っちゃってる。

良くなくてもいいよ。先送りしてみる。対処しない。
だってもうキツいんだもん。


「何とかしなきゃ!」は
逃げ場のない気持ちに更に追い込む事になってるから。
対処するより先に「もうキツい」の気持ちを「そうかー、そりゃそんな気持ちになるのも仕方ないよねー」って言ってあげて、何とかする事を先送りする。


キツいなら「キツいのぅ」って言ってみる。
しんどいなら「しんどいなぁ」って言ってみる。
そんな気持ちのままでもいいや、って言ってみる。


せめて自分自身くらいは 自分の心に寄り添ってあげよう。

心がキツい時は風呂も入れない

毎日毎日「やらなきゃ」で埋め尽くされてる

起きなきゃ仕事行かなきゃ、やらなきゃ ご飯食べなきゃ、家事しなきゃ、アレコレやらなきゃ、やらなきゃならない。
風呂すら入らなきゃ、でもう面倒。やだ。キツい、しんどい。

何一つ「やりたい」がない毎日


もういい、そんな時は「入りたい」と思うまで風呂に入らなくたって良い。
何日か入らなければ「うおー!風呂入りてー!」になるから。

夏場なんてすぐ「入りてー」になるし。

まずは「やりたくない、風呂入りたくない、面倒」な気持ちを優先する。

数少ない自由意思なんだもん。
それくらい許してあげようよ。

死にたければ死ねばいい、とは言えない。残された方の都合かな。

や、自分もそーゆー心境になりがちだけどね。
けど、やっぱ自分でそっちを選ばない。
これを読んでくれてる人も選んで欲しくない。


小学校からの友達が自死したよ。だいぶ昔。
彼女の母親、おばちゃんと抱き合って泣いたよ。

ダンナとも小学校からの友達だったんだけど、ダンナのやり切れない顔、雰囲気、ダンナの親の沈鬱な表情。

何年経っても彼等は苦しいまんま。
癒す方法なんてない。

3人でよく遊んでたから、ダンナと会えば亡くなった彼女の存在を感ぜずにはいられないし、昔みたいに「遊ぼうよ」って言えなくなった。
だから疎遠になった。
数少ない友達もいなくなったよね。


何をしとるんじゃ!!と亡くなった彼女に怒りが湧いて来るよね。
や、私もそーゆー気持ちになりがちなんだけどね。









母親が数年前亡くなった。
溝が深い親子ではあったけど、その動揺は深かった。

兄がその時言ったのは
「親が死ぬのは悲しいけど、順番だからいずれ立ち直れる。けど、子供が先に死んだら立ち直れない。だからお前たち(兄の子や、私の子)は、絶対に親より先に死んではいけない」

本当だな。
子供が先に死んだら あまりにあまりの事で辛すぎる。


母が亡くなって
「人はいずれ死ぬ。みんな死ぬ」
と理解した。
当たり前なんだけど、知ってたけど、思い知った感じ?



自死を実行できる勇気がないだけではあった私ですが、そーゆー心になりがち。そんな時は残された人の事を想像するのはとても有効。
これ以上生きててもね、と思っても 死ぬまでグダグダやってたとしても、苦しいまんまでも、自死は選ばないで生きて行きたい所。
どうせそのうち死ぬしね。


これを読んでて そーゆー気持ちの人もいると思う。
そんな人は「あと3年生きてみて、そんでもそーゆー気持ちのままだったら、その時にまた考えてみよう」としてみて欲しい。
3年も同じ気持ちが持続するなら、ある種の信念とも呼べる訳で。(でも選ばないで)
その頃には違う思考になってると思うよ!